以仁王(もちひとおう)・休子内親王(のぶこないしんのう)
稲村香様のキリ番リクエスト。 以仁王と休子内親王は兄妹で、第77代・後白河天皇の子です。母は藤原成子。 ★休子内親王★ 休子内親王については、手元の資料やインターネットで調べたのですが、詳しい事が判りませんでした。稲村香様の御教示に従って、判っている事だけを纏めてみますと、次のようになります。 休子内親王は、10歳の時に第79代・六条天皇(後白河天皇の孫)の斎王(さいおう、いつきのみこ)となります。 斎王とは伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女の事で、天皇が代わる毎に皇女の中から占いで選ばれ、宮中の斎院と野宮(ののみや)で1年間の潔斎をした後、伊勢神宮に向かい(これを群行(ぐんこう)といいます)、伊勢の斎宮に住んで神宮の祭に奉仕します。天皇が譲位または崩御すると、役目を終えて退下します(斎王については、稲村香様のサイトで詳しく解説されていますので、是非御覧下さい)。 休子内親王の場合は、六条天皇が2年半で退位してしまった為、伊勢へ向かう事なく野宮から退下、その後15歳で薨去しているとの事です。 ここから想像出来るのは「薄幸の少女」というイメージですが、これは私が一番苦手なタイプ。果たして上手く描けているのやら、自分では良く判りません。それでも沢山の方からお褒めの御言葉を頂いてとても嬉しかったです、有り難うございました。 ★以仁王★ 以仁王(1151−1180)は、後白河天皇(1127−1192)の第2皇子。源平の合戦勃発に重要な役割を果たした人です。彼は治承4(1180)年、源頼政(みなもとのよりまさ)の勧めで「最勝親王」と自称し、平氏追討の令旨(りょうじ)(=命令文書)を諸国の源氏に下し挙兵を促しましたが、事前に発覚。平知盛(とももり)・重衡(しげひら)らの追撃を受け、園城寺へ逃れ、更に王を支持する奈良の興福寺に向かう途中、京都・宇治の平等院で流れ矢に当たって戦死しました。 |
★参考文献★ ●歴史背景について
●服飾・建物について
|
★ホームへ★