人物紹介・源頼光

源頼光

 

大江山の酒呑童子たちを討伐したのが、源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)、その四天王と呼ばれる渡辺綱坂田金時碓井貞光(うすいさだみつ)卜部季武(うらべすえたけ)頼光の叔父の藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の6人です。

ここではそのリーダーである源頼光(948−1021)について、彼の出自である清和(せいわ)源氏、祖父の源経基(つねもと)、父の源満仲(みつなか)について順に述べながら、紹介して行こうと思います。かなり長くてややこしいので、途中で面倒になったら読み飛ばして下さい。


清和源氏

源頼光清和源氏の嫡流です。平安時代、皇族の中から姓を賜って臣下に降る者が何人もいて、その中で「源」の姓を賜ったものを「源氏」と呼びました。どの天皇の系列かによって呼び名が決まっていて、源氏には「嵯峨(さが)」「仁明(にんめい)」「文徳(もんとく)」「清和」などの系列がありました。

清和源氏は、清和天皇の孫・経基(つねもと)に始まり、源氏の中で最も早く武士に転業しますが、後に再び中央と縁を結び、成り上がろうとした為、平安朝の京都では最も軽く扱われていました。清和源氏が圧倒的に優勢となるのはもう少し後になってからです。


★源経基(頼光の祖父)

頼光の祖父・源経基(つねもと)(?-961)は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の長男で「六孫王」と称し、源の姓を賜って臣籍に降ります。天慶3(940)年、天慶の乱の際に、征東副将軍として平将門を討つ為に東国へ派遣されますが、将門の死により途中で帰京しています。後に藤原純友の乱の鎮定にも追捕使として派遣されています。

また謡曲「紅葉狩」に出て来る戸隠の鬼女・紅葉は、この経基の寵愛を受けた為、正妻に妬まれて戸隠へ追いやられ、後に鬼女として平維茂に退治される事になっています。頼光の祖父・経基にも、将門純友紅葉といった、鬼やそれと同様の扱いを受けるような、朝廷への反逆者との関わりがあるのは面白いと思います。


★源満仲(頼光の父)

頼光の父・満仲(みつなか)(913−997)やその兄弟は、京都の治安維持などを担当する検非違使(けびいし)などの職に就いており、貴族に便利がられていました。満仲は巧みに中央貴族との結縁に成功し、常に摂関家・藤原氏の指令に従い、地位を固めて行きます。

清和源氏が摂関家の忠実俊敏な番犬として台頭していく第一歩と言われるのが、安和2(969)年の安和(あんな)の変です。これは藤原氏が企てた他氏排斥の疑獄事件でした。橘繁延らが為平親王を擁し、皇太子・守平親王を廃しようと謀っているとの密告が源満仲からあり、左大臣・源高明、橘繁延、藤原千晴、平貞節らが流罪となります。事件後、満仲は密告の功で昇進します。この事件の首謀者は実は右大臣・藤原師尹(もろただ)で、満仲の密告はその指示ではなかったかといわれ、満仲は自分の有力な競争相手・藤原千晴の失脚を意図して密告したのではないかともいわれています。

さらに寛和2(986)年、花山帝の出家事件が起きます。これは藤原兼家が、花山帝を退位させて自分の外孫に当たる懐仁親王を即位させ、更に新東宮(皇太子)にも自分の外孫・居貞親王を立てようと謀ったもので、長子・道兼に命じて、花山帝を清涼殿から深夜密かに連れ出し、山科の元慶寺へ連れ込み出家させてしまいます。この時、帝を護送したのが兼家の指示を受けた源満仲です。道兼は自分も出家すると言って帝を騙して連れて来たのですが、帝が元慶寺で直ちに剃髪出家するのを見届けると、親に断って来ると言って帰ってしまいます。この時、満仲らは、道兼が出家させられぬよう護衛していました。この隙に兼家は清涼殿の神璽・宝剣を懐仁親王の元へ移動させてしまい、事態が公になった時は既に遅く、翌日、懐仁親王が即位して一条帝となり、新東宮は居貞親王となります。こうして新帝と新東宮の2人の外祖父・兼家は摂政となり、権力を手中に収めます。

こうして藤原氏が権力を手中に収める為の謀略に加担して、満仲は自分の地位を固めて行くわけです。


源頼光★

やっと頼光についての解説です。頼光源満仲の長子で、摂津国多田の地を伝領し、摂津・美濃などの国守を歴任、鎮守府将軍となります。伝説では勇材武烈、天下に知らぬ者なく、有名な大江山の酒呑童子討伐を初めとして、他にも土蜘蛛などの妖怪退治伝説が幾つも伝えられています。しかし本当の処は、武士としてよりも貴族としての性格が強く、摂関家・藤原道長の忠臣として終生仕え、中級貴族の生活に執着していたようです。 その様子を少し見てみますと・・・。

長徳2(996) 年、頼光道長のライバル・藤原伊周(これちか)の左遷事件の際、召集されて参内しています。この事件は次のようなものでした。

長徳元(995)年 、関白・藤原道隆の没後、その子である内大臣・藤原伊周(これちか)は、摂政の座を巡って叔父の道兼と争って破れ、七日後に道兼が病没すると、今度は叔父の道長(道兼の弟)と右大臣の座を争って破れます。2度も出し抜かれた伊周は、以前から道長と仲が悪かったのが、以後さらに対立が激化します。更に翌年、故・太政大臣・藤原為光の三の君に通っていた伊周は、花山法皇が四の君に通い出したのを三の君目当てと誤解し、弟の中納言・隆家に命じて馬で帰る法皇に威嚇の矢を射かけるという事件を起こします。
更に病気がちだった東三条院詮子(
道長の姉)の病状が急激に悪化し、それが伊周の呪詛によるものという密告があって、伊周と弟の隆家は、それぞれ太宰権帥・出雲権守に左遷されてしまいます。この時、召集を受けて参内した公卿・武者の中に、頼光も高名な武者として入っていました。数年の内に、伊周・隆家は本の位に復帰しましたが、政治的活動は事実上不可能となり、道長の独走体制が確立します。

また、頼光は相当な財力を貯えていたようで、藤原兼家の二条京極第の新築の際、馬30頭を献上したり、道長の土御門第の新築の際、調度一切を献上したりして、人々を驚かせたという記録が残っています。


・・・こうして見て来ると、武勇の誉れ高い清和源氏の 当初の姿は、摂関家・藤原氏の番犬として、政敵を陥れる際の武力的手伝いをする一方で、折に触れて豪華な献物を届けては機嫌をとり、中央との繋がりを強め ようとしていたのだと言えます。こうした行為が、なりふり構わぬ卑しい態度ととられ、源氏の中では最も軽く見られていた原因なのだろうなと思います。

なお、梦宇様の御教示によると、『多田五代記』という書物に、満仲頼光親子が、平将門の息子・能門(よしかど)の反乱を鎮圧したという話が載っているそうです。これが実話かどうかは定かではありませんが、それによると、将門が討たれた時、将門の妻は1歳の能門を抱いて縁戚を頼り播磨国へ落ち延び、やがて成長した能門は徒党を集め、その威勢を播磨一国に振るうようになります。それを聞いた頼光は朝廷へ能門討伐の願いを出し、それを知った能門は、まず父の満仲を討とうと、正暦元(990)年3月、源氏の本拠地・多田へ攻め寄せましたが、籠城する満仲を攻めあぐね、一旦退却しようと兵庫河(武庫川)を渡った時、琵琶湖の竹生島参詣から戻って来た頼光の軍勢が追い付きます。河を挟んで両軍は対峙しましたが、能門は頼光の策に填り、渡河した能門軍は頼光軍に分断包囲され、能門らは敗走、諸将は討たれ、能門も自刃して果てたという事です。

頼光が大江山の酒呑童子を退治したのは、この能門の反乱を鎮圧した正暦元(990)年の11月頃、ということになりますが、これは史実としては記録に残っていません。彼らの数々の妖怪退治の武勇伝は、清和源氏が台頭した後、先祖の経歴に箔を付ける為に脚色された話が、様々な説話として流布したものだったようです。だからといって、その伝説の魅力が色褪せてしまうというわけではなく、其処に込められた様々な想いを推測する事で、別の面白さが見えて来るのだと思います。


私のイメージする源頼光★

・・・と、ここまで長々と頼光やその父・祖父の経歴を述べてきましたが、では私のイメージする頼光とはどんな人物かといいますと・・・。

源頼光は、やはり説話に描かれているような天下に名だたる武将で、無骨な男であって欲しいと思うのです。権力を手中に収める為にはどんな手でも使う藤原氏の悪辣なやり方と、その「犬」として汚い仕事も忠実にこなし、更に莫大な献物を納めて藤原氏の御機嫌をとっている父・満仲のやり方に不満を覚えながらも、貴族に仕える事で一族郎等の安泰を図らねばならない、身分の低い「武門の家」の宿命に従わざるを得なかった、というジレンマを、頼光は抱えていたのではないか。父のやり方を当然のものとして引き継いだのではなく、心の中では葛藤があったのではないか、と思いたいのです。

大江山の「鬼」と呼ばれた酒呑童子た ちを討伐に行くのも、名を挙げる為にはうってつけの仕事だ、と喜び勇んで向かったのではなく、「鬼退治」の裏に見え隠れする、権力者の思惑を読みとるだけ の思慮深さを持っていて欲しい、と思うのです。権力者に対して阿諛追従するのではなく、常に批判的な目を持ちながら、自分の置かれている複雑な立場の中 で、よりよい道を探って行かねばならない難しさが、彼の表情や言動に少しでも表す事が出来れば・・・、と思っています。


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