人物紹介・藤原保昌

藤原保昌

 

大江山の酒呑童子たちを討伐したのが、源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)、その四天王と呼ばれる渡辺綱坂田金時碓井貞光(うすいさだみつ)卜部季武(うらべすえたけ)頼光の叔父の藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の6人です。

藤原(または平井)保昌( -1036)★

藤原保昌は、藤原致時(むねただ)の次男で、祖父は藤原元方(もとかた)。摂津国平井に住んでいたので、平井保昌とも名乗っていました。成人するにつれて武名天下に轟き、帝に召されて勲功をあらわしたといわれ、また肥後・大和・丹後・摂津等の守を歴任し、藤原道長・頼道親子の家司を務めています。


藤原元方(保昌の祖父)

保昌については特筆すべき逸話があります。まず1つ目は、祖父・元方が政権争いに破れ、死後、凄まじい怨霊になっている事。この辺については夢枕獏原作・岡野玲子作画の漫画「陰陽師」にも出て来ますから、御存知の方もあるかと思います(あの元方祐姫(すけひめ)の怨霊、実は凄く好きなんです私(笑)。ついでに言うなら、同じく怨霊となって出て来る菅原道真も大好き)。

元方藤原南家の出身でした。藤原氏には「南家」「北家」「式家」「京家」の四つの系統があり(それぞれの先祖は藤原武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ))、当時、南家北家ほど羽振りは良くありませんでした。

元方は53歳でようやく参議(公卿の末席)に到達しますが、地位・家柄共に公卿の中では下級に当たりました。元方の娘・祐姫保昌の叔母)は、村上帝の第一皇子・広平親王を産み、外祖父・元方は密かに立太子を望みますが、右大臣・藤原師輔(もろすけ)北家の嫡流)の娘・安子に第二皇子・憲平親王が産まれると、広平親王を差し置いて立太子してしまいます。元方の権力を手中に収める夢はついえました。

政権争いに敗れた元方は恨みを呑んで死に、怨霊となり以後70年間、激しく祟ったと言われています。元方の死後、皇太子・憲平親王(後の冷泉帝)は狂人となり、師輔は邸宅が焼亡し、関白になれず右大臣のまま、孫の即位も見ず没し、花山帝は異常な出家をし(これは源満仲のところで述べましたが、藤原兼家の策略です)、三条帝は眼病を煩うなど、様々な災いが続発し、これが全て元方の祟りとされたのです。

祖父が怨霊となって朝廷に祟っている、という世間の風評は、保昌の心に陰惨な影を落としたのではないでしようか。少なくとも、保昌の兄弟・保輔(やすすけ)斉明(ただあきら) にも、少なからず影響を与えていたのではないかと私は思っています。この2人の兄弟は、傷害や強盗といった事件を何度も起こし、罪人として討伐されているのです。これが特筆すべき事の2つ目です。


藤原保輔・斉明(保昌の兄弟)

その2人の悪行はどんなだったかといいますと・・・。

寛和元(985)年 、弾正少弼(しょうひつ) ・大江匡衡(まさひら)が何者かに襲われて左手指を切断され、さらに下総守・藤原季孝(すえたか)が顔を傷付けられるという事件が起きます。
季孝傷害の容疑者が左兵衛尉
(じょう) 藤原斉明保昌の弟)の従者であるとの情報で、検非違使・源忠良らが斉明邸へ向かいますが、斉明は既に摂津へ逃げ、船で海上に逃亡。斉明の郎等を逮捕尋問した結果、保輔が犯人と判明、検非違使は保輔が居る筈の父・致忠邸を捜索しますが、保輔は今朝、宿願あって長谷寺へ旅立ったとの事(内報者があったのではと思われます)。致忠は5日以内に保輔を出頭させるとの誓約書を出しますが、結局、捕まらず。
その後、
斉明は近江国高島郡で前播磨掾(じょう) ・惟文 (これぶみ) 王に射殺され、斉明の首は京都で獄門に掛けられます。

一方、保輔の方はというと、永延2(988)年、前越後守・藤原景斉(かげなり)らの家に強盗が入り、保輔の郎等の告発で保輔の仕業と発覚(自分の家来に告発される辺り、どういう輩か推察されますね)。更に検非違使・忠良が何者かに射られるという事件があり、それも保輔の仕業で、忠良の姻戚の右衛門尉・平維時(これとき)の殺害をも計画中と判明(3年前、兄・斉明の追捕に向かった忠良一家へ報復しようとしていたようです)。
保輔は、中納言・藤原顕光邸に潜伏との情報があり、検非違使・滝口の武者らが捜査するも見つからず、内裏でも厳戒警備を敷き、保輔を追捕した者には恩賞を与えるとの発表があります(藤原顕光は、北家・藤原兼光の長男で、兼家の甥ですが、後に道長を呪詛し死後怨霊となっています。当時、顕光は同じ北家ながら花山帝退位の謀略で躍進著しい兼家親子へ反感を持っており、南家でしかも盗賊であったが、顕光同様に北家を政敵と見ていた保輔に共感し、匿ったのではないかとも考えられます)。
検非違使は
保輔の父・致忠を三条邸から連行、左衛門射場(弓道場。当時監禁にしばしば使用されました)に監禁。保輔は北花園寺で剃髪出家し、またも検非違使の捜索を逃れ、旧僕の左近衛・足羽忠信(あしはのただのぶ)に密かに連絡しに来ますが、忠信の計略に掛かり(此処でも裏切られていますね)、遂に逮捕されます。その際、切腹し腸を引き出し自害を図りますが(一説によると、これが日本初の切腹だったとか)投獄され、腹の疵により獄中死しました。

保輔追討の宣旨は15度に及び、「強盗の張本、本朝第一の武略」と言われるほどの強者でした。保輔はまた、相当な強欲者だったらしく、自邸の奥に造った蔵の床下を深く堀り、商人を呼び入れ、物を買っては穴に突き落とし殺していたとの逸話もあります。彼らの父・致忠も、商人を騙して庭石を只で手に入れるなど、狡猾な性格だったようで、どうもその血を引き継いでいるようです。        

保輔は盗賊というより、暴力団的組織の首領といった感じで、斉明は船で海上へ逃亡し、検非違使は海賊追捕の賞を受けているので、海賊と見られていたようです。しかし不思議な事に、2人共に現任・前任の兵衛尉で五位の位にあり、最後まで官位を剥奪された形跡がありません。
このように、当時の記録に出て来る盗賊は無職無頼の徒ではなく、れっきとした官吏・貴族の者などが多いのです。綱紀の緩みが酷かった事が見て取れます。ま た、内裏などの警備もだらしがなく、簡単に盗賊・暴漢が侵入出来る状況にあったようです。また平安時代の貴族にも暴力的一面があり、内裏内でもしばしば乱 闘する程で、外へ出れば斬殺・傷害・乱闘が頻発するといった状態だったようです。

この一連の事件の際、頼光保昌は処何処に居たのかが気になる処ですが、所在不明です。冷静さを装って道長邸の警護をしていたのかも知れません。あるいは保昌は内報の疑いを掛けられて何処かで軟禁状態だったかも知れませんが・・・。

保輔が追討の末、獄中死してから2年後、頼光保昌らは酒呑童子退治に向かっています。


大盗賊・袴垂

保昌の人となりを伝える逸話に、大盗賊・袴垂(はかまだれ) との関わりがあります。

ある秋の朧月夜の晩に、当時、保輔と並び称された「極(いみ)じき盗人の大将」・袴垂なる者が、笛を吹きつつ唯一人都大路を歩いて行く貴人を見付け、衣装を奪おうと後をつけ、抜刀し襲いますが、相手の威厳に「心も肝も失せて、只死ぬばかり怖ろしく思へ」、我知らず跪いてしまいます。貴人に名を聞かれ袴垂だと答えると、屋敷まで連れて行かれ綿厚き衣を与えられ、逃げ帰ります。
後に
袴垂は、その貴人は摂津前司で、剛勇を知られた藤原保昌だと知った、という話です(『宇治拾遺物語』『今昔物語』)。

この時の保昌は、盗賊の袴垂に、兄・保輔の姿を重ねて見ていたのではないでしょうか。殺そうと思えば出来たであろうに、世を騒がせている大盗賊に温情を掛けたのは、只の酔狂ではなかったと思うのです。それを示すかのように、後世、この袴垂保輔が混同され、袴垂保輔という名の一人の大盗賊として語られるようになります。


★源頼光との共通点★

清和源氏藤原南家は共に、同族中で最下級の家柄という引け目があり、頼光の父・満仲はこの共通点による親近感からか、後に保昌の妹を室にしています。保昌頼光の叔父、というのはそういう繋がりなのです。頼光保昌はその家柄の低さを克服せねばならぬ使命にあったというか、そう仕込まれていったのではないかと思います。この引け目に加え、狡猾な父の性格、祖父の怨霊化などが潜在的ストレスとして鬱積し、更に兄弟の粗暴化・獄死を経て、保昌の陰鬱な性格が形成されたのではないか、と考えています。                  


★私のイメージする藤原保昌★

政権争いに敗れて祖父・元方は怨霊になって祟るわ、兄弟の保輔斉明は強盗傷害事件で獄門首になるわ・・・。こんな複雑な家庭環境に育った保昌は、 きっと捻れた性格になったんじゃないか、と私は思いました。当時は権力争いや怨霊騒ぎ、暴力沙汰なんかは日常茶飯事だったかも知れませんが、やはり身内が 此処まで派手にやってくれると、肩身が狭かったんじゃないでしょうか。彼らが反面教師となって、自分だけは控え目に地味に、世間を騒がせぬよう、地に潜る ような性格になって行ったんじゃないか・・・と考えています。

酒呑童子討伐に加わった保昌の心の奥底には、この尋常ならざる祖父と兄弟への複雑な想いが澱(おり)のように溜まっていて、幾度となく沸き上がっては心を乱していたのではないかと思っています。
2人の兄弟は
保昌に とって、嫌悪と憎悪の対象であると同時に、どこか憐憫を感じさせる者だったのではないでしょうか。2人の悪行を知りながらそれを糾す事も出来ず、むざむざ 死なせてしまったことへの自責の念もあったかも知れません。祖父の事がなければ、あれ程までに悪行を重ねずに済んだかも知れません。

保昌が討伐しようとしている「鬼」・酒呑童子たちも、兄弟と同類なのではないか?「誅殺されるべき悪鬼」の真実の姿を一番知っているのは、保昌ではなかったか?だとしたら、彼はどんな想いで酒呑童子を討ったのか?
・・・
保昌酒呑童子を殺す事で、自分は「誅殺されるべき」「鬼」や「兄弟」とは違う者だと自分に言い聞かせたかったのかも知れません。しかしその「鬼」や「兄弟」たちが「誅殺されるべき」存在になってしまったのは、本当は誰のせいなのか、保昌は知っていた。このあたり、頼光と共通するものがあるような気がします。

兄・保輔と同類の盗人・袴垂への温情が、兄への想いの転化だとしたら、それは酒呑童子を討った後の事かも知れません。それ以前なら、兄を思い起こさせる者として、嫌悪感から袴垂を殺していたかもしれず、たとえ殺さなかったとしても、わざわざ自邸に招いて衣を与えたりなどしなかったのではないでしょうか。やはり兄の姿と重なる酒呑童子を殺した事で、保昌の心に罪悪感のようなものが生まれていたとすれば、その後で袴垂に出会った保昌が温情を掛けてしまったのが解る気がします。


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