五十狭芹彦(いさせりひこ)
「浮かぶ面影 彼(か)は誰(たれ)そ」

五十狭芹彦

前回の「血潮」が余りに重い絵だったので、そのまま更新もせずに暫く放って置くのはちょっとまずいかなと思い、取り急ぎ穏やかな奴を持って来ました。これも昔の落描き。今はちょっと未だ落ち着いた絵を描ける状況では無いので・・・。
しかし実はこれも血みどろな戦争物の主人公。私の描きたい歴史物はそんなのばかり。しかも殆ど男しか出て来ない・・・。歴史の半分は女によって作られてい る筈なのですが(表舞台に出ているかどうかは別にして)。女のくせに女が描けなくてどうするという気はするけど、女は描いてても全然面白くないし・・・っ て、駄目だろうそんな事では。

この絵は、戦に明け暮れる中、ほんの少しの間、誰かの事を想っているような表情だったので、こんなタイトルにしてみました。「誰(た)そ彼(かれ)は」にするか、(か)は誰(たれ)そ」にするか迷ったのですが、「たそがれ」時というよりも、朝もやの漂う「かはたれ」時に、朝露に濡れて1人佇んでいるような感じがしたので、彼は誰そ」にしました。
・・・しかし、人物の周りに花弁らしいものがチラホラ描いてあるので、これを描いた時には多分、少し風の出て来た時刻に、散り始めた花の樹の下に立ってい るイメージで描いたのだと思います。でもいいや、今の気分が朝露降りる「かはたれ」時なんだから。・・・結構適当に付けてます、落描きのタイトル。


五十狭芹彦

五十狭芹彦(いさせりひこ)については、書かれているものによって少しずつ異なっています。年齢を計算すると辻褄が合わなくなったりして、色々と疑問点はあるのですが、簡単纏めると次のような人物になります(私はこの諸説を何とか辻褄が合うようにくっつけて、1人の五十狭芹彦という人物として描こうと思っています)。

『日本書紀』では、第7代・孝霊天皇の皇子として「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」または「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」と言う名で登場します。その後、第8代・崇神天皇が、北陸・東海・西道・丹波の4つの地方を平定する為に、それぞれ将軍(「四道将軍」)を派遣した時、西道へ派遣され、途中で畿内の反乱を鎮圧後、出雲のまつろわぬ者を討伐した事になっています。
『古事記』では「
比古伊佐勢理田比古命(ひこいさせりひこのみこと)」または「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」と言う名で、異母弟の「若建吉備津日子命(わかたけるきびつひこのみこと)または「稚武彦命(わかたけひこのみこと)」と共に、吉備国(現在の広島県東部〜兵庫県中央部)を征した事になっていて、崇神天皇の時代には記載が有りません。

また、岡山県の吉備津神社の所伝によれば、大吉備津彦命は吉備津神社の祭神で、「温羅」という鬼人を退治し、神社の裏手にある吉備中山の山麓に住んで吉備を統治し、そこで没したとされ、墓は山頂にある中山茶臼山古墳という事になっています。
吉備津神社は備中国の一の宮で、創建は「加夜奈留美命」(
大吉備津彦命の5代の孫)が、祖神祭祀の為に、大吉備津彦命の茅葺宮跡に社殿を造営してその荒霊を移し祀り、相殿に7柱の神を祀った事に始まると言われています。
しかしもしかしたら、本来の主神は
吉備津彦ではなく、大和朝廷が侵攻して来る以前にその地を治めていた、温羅という人物だったのかも知れません。

・・・何だか頭がすっきりせず、文章が判り辛くて済みません。温羅吉備津彦の関わりについては、また後日きちんと詳しく書きますね。


五十狭芹彦

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